ツレヅレゲキジョウ

ちょこの日々徒然なブログです。ほとんど日記。我が日常。

タイムテーブルの見せっこしませんか

時間の使い方が上手になりたい。
多少効率的で、多少融通が利き、私にあった時間の使い方を学びたい。

充実した日々を送って見える人にタイムテーブルを見せてくださいとお願いしたい。
見せてだけだと不公平感が強いから、見せっこでもいい。(ただし私のはあんまり参考にならないけれど)

テレビの番組表みたいな感じでも、イベントの出演バンドリストみたいな感じでもいいから、タイムテーブルを知りたい。

目下、一番の欲求はここ。

 

トイレの長い男性に

観光地や遊戯施設の女性用トイレの行列は、たぶん女性でなくともご存知かと思います。
とくにノロノロしているわけじゃないんだけど、順番待ちをしているだけでどうしても時間がかかってしまうから、外で案外長いこと待たされた経験のある人も多いかと思います。

トイレで並んでいるとき、私はいつも思っていました。
「男性だったらささっと出て、待たせちゃうこともないだろうに。男性用に入っちゃおうかな」

最近、この考えが間違いだと教わりました。
男性用トイレ、個室の方は行列になることが多いのだと。
朝の駅、大型電化店、男性用トイレの個室は数が少ないうえに、利用者一人当たりの滞在時間が長く、もじもじと待たされている人がたくさんいるのだと。

そういえば確かに、オフィスでトイレに席を立ったおじさんが、なかなか戻ってこないというのを何度か目撃している。
ドラマなんかで描かれる朝の風景では、トイレを占拠するお父さんに母と娘が猛烈な抗議の言葉を浴びせていたりする。

お腹が冷えやすい男性も多いらしいし、トイレが長くなりがちなのも男性の特徴なのかしら。

そんなトイレの長い男性方に、私は納豆をお薦めしたい。
毎夜、一パックずつ、欠かさず食べて欲しい。
一週間もすれば、トイレが安定し、時間も短くなっているはず。
そしてできることならば、継続して、一日も欠かすことなかれ。
夜に食べられないとわかっている日は、朝でも昼でも食べてカバーするようにして、とにかく毎日。
ヨーグルトもそうだけれど、腸内環境を整える食べ物は継続が大切なんだそう。
一度途切れてしまうと、取り戻すのに何日もかかるのだ。

私の身近な男性も、納豆嫌いなのに、毎日納豆を食べさせられています。
こころなしか少々痩せてもきた感じ。

納豆健康法、頭がよくなるって説だけじゃなく、有効だよ、たぶん。

 

本文とは関係なく自作宣伝。

 

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これは移り気?

誰かの本棚から一冊、本を借りて読みたいと思うことがある。
読みたい本がないわけでも、今読んでいる本がつまらないわけでもないんだけど、借りて読んでみたいと思うことがある。

私は基本的に本をたくさん持たないようにしているので、何度も繰り返して読む本以外は手放すことにしている。(最近は古本屋さんへというのではなく、どなたかに譲ったり、寄付することが多い。それでも電子書籍で買うことが増えているので、かなり少ない)

だから、本棚を見せてと言われると、心の奥深いところを見せるようで恥ずかしい。

そういうこともあって、誰かに本棚を見せてとか、本を貸してと言えることは少ないんだけど。。。
それでも、誰かの一冊を読んでみたいなと思うことがある。

これって移り気?
たばこの銘柄を気分で変える人に似てるかもって、ちょっと思った。

 

私の今、読んでいる本、ゆっくり読書は、すごくゆっくり進んでいる。
今日はさらにモンハンダブルクロスの体験版で遊んでしまって、なおさらゆっくりになっている。

久しぶりに狩猟生活をしたい感じなのよね。
クック先生だけ狩ってみようと思ったものの、結局、ボルボロスもベリオロスも狩ってしまった。

読書からゲームへ、これも移り気。。。

 

音は記憶を補完して

気候のせいなのか、どうしてもダメな気持ちに落ちてしまうとき、必ず聴きたくなる曲がある。
音楽は記憶と結びついて、いつのまにかふさわしいタイミングを持ってしまうことがある。

今日はもう、この曲ばっかり、心の中で歌ってた。
大好きな曲。

そんなときはガチンコ勝負だ!

 

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本命を示す順番

いまどきのホワイトデーはチョコレートを贈るのが一番だと聞いた。
チョコレートは大好きだ。確かに嬉しい。
けれど、いつからホワイトデーもチョコになったのだろう。ごくごく最近な気がする。

私が高校生のころ、バレンタインにチョコレートで愛を告白された男性は、ホワイトデーのお返しとして、三種類の選択肢があった。

付き合うつもりならばクッキーを、好意はあるけど今後次第ならキャンディーを、その気がないのであればマシュマロを返すと決まっていた。

今もそういうのあるのかなって思ったら、このお返しの順番も、年代ごと、地域ごとに違いがあって、どこでも共通なわけではないと判明した。

がーん。
そうなのか。。。

共通の指針がなかったら、お互い勘違いってこともありえるよね。
勘違いから始まる恋みたいな?
そっか、それならいいかなぁ。。。

 

お菓子業界の陰謀なのか、どうなのか。色々変わっていくものなのね。
最近はチョコレートが一番だというし、あと数年したらアイスクリームとか、マカロンとか、ランクインしてくるのかしら。

 

本文とすこーしだけ近寄って自作宣伝。
これはアイスクリームが好きな人のお話です。

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効果がなくても宣伝すること、したいこと

こういうことを考えたり、書いたりするのは趣がないんだけれど。。。

ツイッターのつぶやきの一つ一つで、「ツイートアクティビティ」なるものが見れるようになって、見なければ気にならないはずなのに、見てしまった。
思うところあって、ここ一年くらい、宣伝のリツイートをお願いするようなつぶやきを避けて来たし、積極的にリツイートするのも止めた。だから、ツイートの先に関しても、気にしなければ気にならないことのはずだったのだけれど、やっぱり見れるって分かると見ずにはいられなかった。

インプレッション(ユーザーがツイートを見た回数)、エンゲージメント総数(ユーザーが反応した回数)、リツイートされた回数、コメントされた回数、リンクのクリック数が確認できる。
そしてゲスい話、電子書籍に関しては販売数もわかる(販売方法によってすぐにわかるものとそうでないものがあって分かる時期が異なるのだけれど)。

無料公開しているものについては、リツイート数、リンク数が増えると、その記事のPV数が確かに増える。増えるけれど、ページ滞在時間の短い閲覧数が多数だったことに辿り着いて、凹んだ。
リンクが本当に有効なものかどうか、試しに飛んでくれているだけなのだと想像できる。そうだよね、確認は必要だよね。わかる。わかるんだけど、凹んだ。

有料販売している電子書籍の宣伝ツイートに関しては、無料のものに比べてクリック数も少ない。ほぼリアルタイムで販売状況がわかるサイトの情報と見比べても、販売につながったと思われるものにはまだ一度も出会っていない。
リンク先が怪しいものでないという保証もないし、そう簡単にクリックしてもらえるものではないのだろうと想像できる。宣伝したからといって、タイムラインを眺める多数の人に興味を持ってもらえるわけじゃない。悲しいけれど、それもわかっている。

ちょっと惹かれるおもちゃや本やイベントなんかのツイートについては、リンクをクリックしてもらえる数がグッと増える。文句を書いたものよりも、楽しいもの、嬉しかったものの方がクリックされる回数が多い。だよね、私も誰かの投稿が気になってリンクに飛ぶのはそういうのが多いから、わかる。

 

そうして私は結論付ける。
少なくとも私のツイッターでの宣伝効果は、すでに私の作品に興味を持ってくれている方々へのお知らせとしての機能は十分に果たしてくれるけれど、不特定多数への宣伝効果としては、自作品に関してはほぼなしと言える。
おもしろいものや話題のものに関する口コミ効果としては、有効な面もあるけれど、フォロワー数を考えたら、それだって物凄い効果があるわけじゃない。
どんなつぶやきでも、リツイートしてくださる方がパワーを持つ方だった場合には、大勢の人の目に留まるのだろうけれど、その効果は測定できないので、不明。

宣伝が有効だ、効果ない、そういう論争を、ときどき見かける。
有効な人には有効なんだろうけれど、効果を感じない人もいっぱいいるのだと思う。
なにを持って効果があったとするか、どのくらいで効果があったとするか、その基準は人それぞれだし、言い争っても仕方がない。基準がどこにあるかでレベルが高い、低いということでも、SNS利用の意識が高い、低いということでもないと思う。
だから私の出した結論が誰にでも当てはまるわけじゃないことはご理解いただきたい。

 

そして、効果がないと思っていても、私は宣伝をしている。
お知らせ機能がありがたいし、もしかしたら誰かに届くかもしれないという希望も諦められないし、なにかをしたという自己満足にもつながる。どうして宣伝をするのかと言われたら、こういうことだと思う。

たとえ効果なしと言われても、宣伝せずにはいられない。
効率よく割り切れないのが人なのかな、不思議だ。

宣伝なんてしなくても強烈にすばらしいなにかであれば、きっと大勢に見てもらえるんだろうと、ずっと思ってもいる。そんなふうに、いつかなれたらいいなぁとも思っている。

 

不思議と理想と、時間的制約と心の不自由さと、いろんなことを考えてしまって、なにも果たせていないような気がして、ときどきどうしようもない無力感に襲われる。
今日はその無力感を言葉にしてみたくって、こんなことを徒然と書いてみた。
書いたからなんだということでもないのに。。。
宣伝に関しては書いても書いても、未だ思考の整理はできず。
だからきっとまた書いちゃうんだろうな。

本を買うとき

とうとう買ってしまった。
読み始めると他のことがしたくなくなっちゃうから、発売されてすぐ買わない本がある。
読み終えてしまうのがもったいなくて買わない本、読み始めない本もあるんだけど、今回は単純に他に期限の迫っていることがあるから買わずにいた。

けど、欲しいな、欲しいなって思って我慢していることがストレスに思えて買ってしまった。
ちょっとずつ、やるべきことのノルマ量を決めて、毎日それを終えたらちょっとずつ、読んでもいいことにしたいと思っている。

時間管理、難しくないですか?
やりたいことがいっぱいあっても、休まないではいられないし、(年齢のせい?)、ダラダラもしないと相対的に満足できなかったりもするし、難しい。。。

夢中で朝まで本を読んでいたっていうのもステキで、とっても惹かれるけれど、体調と予定と、諸々を考慮して楽しむ読書、ちゃんとやってみたいな。
できるかどうか、不安だけど。

 

買っちゃったのはこれ。
結構ガマン、がんばったよね。

ツレヅレゲキジョウ

きのう決心したとおり、ブログのタイトルを変えました。
「ツレヅレゲキジョウ」

「つれづれげきじょう」では、ちょっとニュアンスが違う気がしたので、カタカナにしました。意図したいことはそのまんま、徒然劇場、徒然激情。
退屈でちょっと手持ち無沙汰な日常のあれこれと、そんな中でも時折激しく湧きあがる感情を書きたい、そういったところです。

ラモーンズの激情みたいに、ちょこの激情にするのはどうだろうとも思ったのですが、徒然な日々の方が多いような気がして断念。
でも、徒然だけじゃないんですよね。短気だからすぐ怒ったり、熱くなったりもしてる。
そんなこんなで、ツレヅレゲキジョウ。

怒られちゃうかもしれないけれど、造語みたいにして遊ぶの、とても好き。
短編、「日々是怪味」は、正しくないんだけど、「ひびこれかいみ」と読んで欲しいし、今日だったら、サンキューの日だけど、ザクの日の方が好み。
好きな曲のタイトルや、好きなバンドのアルバムタイトルからヒントを得てなにかを書いたりするのも好き。

徒然な日々にちょこちょこ発生するイヤなことを、好きなことをいっぱい集めることで埋め合わせしたい。
そういう意味のタイトルも、考えていたんだけど、残念ながらこちらは思いつかず。
もし思いついたら、もう一つ、ブログを始めちゃいそうですな。

 

本文にちょっとだけ絡んで宣伝。

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タイトル変えよう、変えます

ブログのタイトル、好きなのを考えたので、変えようと思います。

小説もそうだけど、タイトルって難しい。
私は思いつきと言葉の調子と気分と、自分が思ったものに近いかどうかを基準にしてしまうので、わかりやすいとか、伝わりやすいとか、いまどきだとか、売れ線だとか、そういうところからは、だいぶ外れてしまいます。

それでも、自分が発信するものの名前なんだもの、自分が納得するものにするのがいいよね。そんなふうに思います。

 

負け惜しみみたいに聞こえちゃうかしら。

 

バスの扉が閉まらないんですけど

満員のバスに乗ると不思議に思うことがいろいろある。


もう誰一人として乗れない状況で次のバス停に着いたとき、ドアを開け、「たいへん混雑しておりますので次のバスをお待ちください」と言う。
これはぜったいしなければならないことなのだろうか?
バスの扉が開けば、乗れるのだと期待するし、乗りたいと思うと思う。でも実際には乗れないのだ。乗ろうとしても、「バスの扉が閉まらないんですけど」なんて、すごく曖昧なアナウンスをされてしまう。
「降りて」と言えないのもまた、なぜ言わない、言ったらダメなの?って思うけれど、そんな状況になるとわかっていて扉をあけるのも、やっぱりどうかと思う。
扉付近で小さくなっている人たちも、降りる人がいないとわかっていて停車するたびに顔がこわばっている。
扉を開けず、ごめんなさいをすることはできないのだろうか。

運転手さんやバス会社ごとで違うのだろうけれど、それはそれで不満になりそうだし。
ここいらで一つ、統一見解を作っておいたらいいんじゃなかなって思う。

 

扉が閉まらないについては、もう一つ。

電車が運行を見合わせてバスにも振り替え輸送がされたとき、すごい光景をみた。
満員のバスは扉が閉まらず、「バスの扉が閉まらないんですけど」とアナウンスが繰り返された。
このときも、降りてくれと促すことはなく、ただただ繰り返されるアナウンスに、乗客の誰かが、「どこに立ったら閉まらないんですか!」と声をあげた。

「黄色い部分に立つと閉まりません」
マイクを通して帰ってきた答えに、ドア付近に立つ人の頭が一斉に下をむいた。ぎゅうぎゅう詰めではっきりとは見えなそうだけれど、それでも黄色を感じた人が三人、自らバスを降りた。

バスの中にホッとした空気が流れた。これで扉が閉まるかと思いきや、そうはいかなかった。
降りる人を見て、ぐいっと乗り込んでくる人が三人いたのだ。
そしてまたアナウンスが繰り返された。
「バスの扉が閉まらないんですけれど……」

先を急ぐ気持ちはわかる。
みんなおなじだと思う。
だからって、これはどう見てもおかしい。ぐいぐい押して、もし扉が閉まったとしたら、自ら降りた三人があまりにも理不尽ではないだろうか。

「今、乗った人降りて」

よっぽど言ってやろうかと思ったけれど、乗客同士のトラブルでさらに出発が遅れるとか、そういうのは避けたいし、思わず言っちゃった場合は別として、言ってやろうかどうしようかと迷っている時点でそんな勇気はでない。
私はただただ、黄色の印に気が付いた誰かが降りてくれないだろうかと祈りながら座っていた。
この日、たまたますごく珍しい光景を見たわけじゃないと思う。


満員のバスに乗ると不思議に思うことがいろいろある。
なにか良い改善案がないものだろうか。